episode01-2 掴まれた手

 次に目が覚めたのは、昼過ぎだった。今度は悪夢も見なくて済み、穏やかに目が覚めたと言える。けれど朝に考えていたことを再び思い出してしまい、目覚めた後の気分は下降の一途をたどっていた。誰しも気分の浮き沈みと言うものは存在するものだが、今の世界は沈みっぱなしだった。
朝独特の済んだ空気感が霧消していることから昼だと理解した。休日には一度も設定してない目覚まし時計を見つめ、ため息をつく。どうしてこうも似たような夢を毎度毎度見なければならないのだろう。おかげで春休みだというのに鬱屈した気分だ。こうなると回復するまで少し時間がいる。普段なら寝ればもとに戻るのだろうが、また夢を見てはどうしようもない。
 「なんなんだよ……」
 とりあえずは起きだして、顔を洗いに洗面所に向かう。布団を片付けると誰もいないリビングの、ソファに腰を下ろす。特にやろうと思っていたことはない。この時間なら携帯ゲーム機を持ち出して縁側で寝転がるのもいいかもしれない、と考えた。今の時期、昼時の縁側は暖かい場所だった。
 太陽の光が柔らかく入ってきていていい感じの場所で、春や秋はここに居ることが好きだった。夏は暑くてたまらないし、冬は寒くてたまらない場所なのである。
 「……」
 しかしどうにも集中できず、ゲーム機を放り投げた。放り投げたとはいっても畳んだ布団の上なのだが、ふと寝転がると廊下の先にカッターナイフが落ちていた。一体何のために買ったのか、武骨なデザインで薄いプラスチック程度なら切れてしまいそうなくらいの代物だった。
 「……」
 世界はそれを拾い上げる。きっとそこに置いたのは自分だろう。ではなぜそんなことをしたのだろうか。一応世界はきちんと整理整頓はする方である。ずぼらで気まぐれで適当な性格なのだが、それ以上に多少潔癖な一面もあるらしく、居住環境があまりに汚いのは許せない性質だった。とはいえそこまで神経質ではなく、あくまで小奇麗程度なのだが。
 して、その世界が無造作に落ちているカッターナイフを片付けないまま放置、なんてことがあるだろうか。あるかもしれないし、ないかもしれない。そのあたりは気分屋であるので、ぽつんとあるカッターナイフは後で片付けよう、とずっと後回しにしていたのかもしれない。
 ためしに刃を出してみる。まだ刃を変えて間もないのか、銀色がきらりと太陽に反射した。それを見て、世界は思う。
 (……これ使えば、あっさり死ねたりしてな……)
 手首を切る、というありがちな自殺。リストカットとはまた別の部類なのだろうが、たまにニュース番組などで社会現象として特集が組まれていたりする。有名な自殺の手法。
 けれど、痛いのだろう。世界とて包丁で指を切ったりすることもある。その時は痛かったし、それなりに血も出た。それが手首を切るとなったらどうなるんだろう。盛大に血が飛び散るのだろうか。そして想像を絶するような痛みなのだろうか。
 でも。世界は思う。それを代償に悪夢から逃れられるのなら。この先生きていくうえでの面倒な悩みとかがなくなるのなら。それも悪くない。むしろそっちのほうが楽な人生と言えるのではないのだろうか。そして何より、思うことがある。
 (たとえ俺が死んだとしても、この世は平常運転だろうしな)
 何人か悲しむ者もいるかもしれないし、いないかもしれない。どちらにせよいつか自分の死は風化して、誰からも忘れ去られてしまうのだろう。それが別段悲しいわけでもないし、自殺の理由でもない。ただなんとなくこれからの未来に起きるであろう『嫌な出来事』から目を逸らしたい、そう思っただけだ。
 カッターナイフを握りしめる。せめて家は汚したくない、とばかりにガラス戸をあける。あとは痛みを自分がこらえれるかどうかと、自分で自分を傷つける、覚悟があるかどうか。ここで引き返したところで誰も何も損はしまい。けれど、それはなんとなく嫌な気がした。せっかくの決意が無駄になるようで。
 刃を不必要なくらい長く出す。今度は不思議とさっきの銀色には見えなかった。何かが原因でくすんだ色になってしまったような、そんな感じだった。
 そっと、沿うように手首に当てる。冷たい感触。あとはぐっと力を込めるだけですべては終わる。いや、すべてが終わると世界が思っている。たとえ手首を切ったとしても切った血管が致命傷につながるような場所じゃなければ助かるだろう。リストカットを繰り返す人間の中には自分で手当をすることができる器用な者もいるくらいだ。
 世界はそっと目をつむる。さすがに直視したくない光景ではある。しかしそれができないことが世界の弱さなのかもしれない。結局彼は生きていたいのか死んでしまいたいのか、自分でもよくわかっていないのだった。
 そして今まさに力を籠めようとしていた瞬間。そんな世界の腕を掴む者がいた。

 世界の家は上り坂の中腹にある。そこまで一気に駆け上る黒猫を視界にとらえつつ、航輔も走る。何もないに決まっている。そう言い聞かせながら、なぜか航輔は慌てていた。理由はわからない。正体不明の何かが焦らしてくる。警鐘なのだろうか。だとしたら一体、世界の家で何が起きているというのか。
 すべては着いてみればわかる。きっとそこには何事もなく平和な景色が広がっていて、敷地の入口で息を切らしている航輔に向かって世界が『何してるんだよ、お前』と言ってくる。そう信じている。だからこの焦燥感の正体はきっと、自分で確認できてないことによる不明瞭さが原因だ。
 黒猫が敷地の中に入っていった。航輔も続こうとするが、やはりいきなり闖入するのはいかに幼馴染の家と言えど、不法侵入に値する。子供時代だとそういったことはお構いなしだったが、やはり常識というものを学んでいくとそういう風に考えるようになってしまう。
 なんて話せばいいんだろうか、と一瞬悩んだ航輔だったものの、とりあえず無事さえ確認すればあとはどうとでもなる、とインターホンのボタンを押そうとした。
 その時だ。なんとなく世界の家の方に視線を向かわせていたのだが。縁側に世界が座っているのを見て安堵の溜息をつこうとした瞬間。
 世界が、カッターナイフを持っていることに航輔は気が付いた。そしてそれを、手首に当てていることも。航輔は混乱した。一体世界は何をしようとしているのか、と。そんなことは簡単に分かる。自殺だ。
 気づいた瞬間にはもう、走り出していた。ここまで来たらもう不法侵入とかは関係ない。カッターナイフを手首に当てている理由が自殺以外にあるとしても、今の航輔にそれは思いつかない。航輔にとって幸いだったのは、航輔が世界の手首をつかむまで、世界が航輔の存在に気付かなかったことである。もし気づかれていれば驚いてしまいその勢いで、なんてこともありうるし、下手に気づかれれば自分を人質に取って自殺を完遂しかねない。そんなギリギリのバランスの中を、航輔は渡りぬいたのである。
 「何してるんだお前!」
 手を叩いてカッターナイフを世界の手から落とす。世界はそこでようやく航輔の存在に気が付いたらしい。驚愕の表情が浮かんでいる。それはそうだ。普段のこの時間帯に世界の家付近にやってくる存在がいるとしたら野生動物くらいなものなのだから。
 「……何もしてねえよ」
 それから世界は少しむっとしたような言い方をした。さすがに面と向かって自殺、という訳にはいかない事情なのか。とにかく航輔は、これ以上追及するのは不味いかもしれない、と察した。出来ることなら自殺しようとした理由を聞きだすのが一番いい。だがしかし、そういうことは得てして他人に言いにくいものであると航輔は考えている。他人に相談できなかった挙句、自殺してしまうということもあるのだ。
 だからこれ以上、航輔に追及することはできなかった。下手に追及してまた激情に駆られて、ということもあり得ないことではない。とにかく航輔は、世界を落ち着かせることを優先させることにした。
 しかし、航輔はここで致命的ともいえるミスを犯していたことにまだ、気が付いていない。それは縁側の置き石の上に落ちたままの、カッターナイフ。これを真っ先に航輔は回収しておくべきだった。それをしないのなら、せめて世界がそれを拾いに行けないような状態を作るべきだった。
 それに気づかぬまま、航輔は一旦話を始めようと、世界の手を離す。それもまた判断ミスとなる。世界が再び刃が出たままのカッターナイフを手にするチャンスを演出してしまった。
 気づいた時にはもう遅い。だがしかし、ここで予想外の事態が起きる。航輔が手を離し、そして世界はカッターナイフを掴む。ここまでは合っている。そこから世界はまた自殺に走るだろう、と思いきや。
 カッターナイフを向けられたのは、航輔の方だった。切っ先を向けられて、航輔は困惑する。一体何を考えているのだろう、と。さっきまで自殺しようとしていたはずの者が、誰かを殺そうとするだろうか。ただ、世界は普段通りの精神状態ではないことは予想がつく。そのせいかもしれない。先ほどは驚愕の表情が浮かんでいた世界から、何もなくなった。正確に言えば、表情が消えていた。そして、言う。
 「じゃあ、死んでみるか?」
 異様なまでに冷たい響きを持った声だった。ともすれば殺意を持っている、と言われても納得するくらいに。
 

- continue -

2012-02-25

二話目です。なんかすごいことになってますね。
これも勢いで書き上げた感がしなくもないんですけどね!
でもまだマシ、なのかなあ……。まだわかんないや。
まだ序盤ですしね。