episode03-1 切られた電話

 暗くて広い、海だった。そこで自分がいったい何をしていたのか、あるいはしようとしていたのか。思い出せない。波がざざ、と寄せては返す。その音をただ聞きながら立っている。
 ああ、そうだ。確か探し物をしていた。それは真珠のように、きれいでとても、大切にしていたはずの代物。それをなくしてしまった時点で駄目になったのかもしれない。けれど、そこから元に戻るために必要なのだ。だから探さなくてはならない。
 幸いにもどこまでも足首程度の深さしかない海だ。一度として遠くへ行った確証はないけれど、なんとなくそんな気がしていた。そして自分は、この海がなんという名前で呼ばれているのか、知っている気がした。けれどそんなことより、早く探さなければならない。今はまだ、平常心を保っていられる。けれどそれもいつまでもつかはわからない。
 一歩、足を踏み出す。どうやら裸足らしい。けれど、砂は足を傷つけることがないくらいに、滑らかだった。このどこかに、落ちているはずなのだ。遠い昔に、落としてしまったものが。穏やかに打ち寄せる波がどこかにさらっていったのかもしれない。けれど、だからまだ、見つかると思っていた。
 けれどそれは、いまだに見つかっていない。失ってから初めて、それが大切なものだと実感したのかもしれないが。いや、あるいはただのないものねだりだったのかもしれない。自分はそれを持っていないから、惜しくなってしまったのかもしれない。結局は自分が大切に想っていることには、変わりはないのだ。
 遠くで何かがうごめいている。いつもいつも、探していると邪魔をしてくるあいつだ。一体何が目的で、どうして邪魔をするのかはわからない。今回こそ、邪魔される前に見つけなくては。そう思いつつ、あたりを手探りで探し始める。
 瞬間。

 「……朝か」
 午前7時、いつも通りに目覚まし時計は甲高い悲鳴を上げていた。それを押し黙らせると、先ほど見ていた夢について思考をめぐらせる。あれは確かに自分だった。だが、どうしてあんな夢を……?
 そんなことに思考を費やしていたら、母親が自分を呼ぶ声が聞こえてきた。どうやら朝ごはんの支度が整ったらしい。寝間着から着替えて、顔を洗うと、階段を降りる。
 「おはよ、航輔くん」
 御堂奏。航輔の母親だ。活発な性格でどことなくボーイッシュである。ただし年齢その他諸々の項目に関しては秘密らしい。以前それに対して突っ込んでみたところ手ひどい目に遭わされた航輔としてはそのまま永遠にそれらに関する質問は封印することにしていた。
 「おはよ……」
 「なーんか今日も元気ないねー、シャキっとしなさいよほら!」
 「夢見が悪いんだよ」
 悪夢、と呼べるのかはわからない。けれど少なくとも、航輔にとって見ていて楽しい夢でないことだけは確かだった。
 「夢、ねえ……あたしはほとんど見ないけどな」
 「見ないじゃなくて覚えてないだけだろ」
 夢は記憶を整理するために見るもの、らしい。らしいというのは最終的によくわかっていないということであり、今もそれに関連する研究は行われている。好きな夢をみることはできるのか、あるいは悪夢を見ないようにはできるのか、ということもわかっていない。
 そして夢は眠ると毎回見ているものらしい。覚えているのはレム睡眠の時に覚醒したときが多く、ノンレム睡眠時に夢を見ていても記憶はされていないことがわかっている。
 では、レム睡眠とノンレム睡眠とはなんなのか。二つとも睡眠の状態のことである。体が眠っていて脳が活動しているときがレム睡眠で、急速な眼球運動を伴う。脳が休んでいて体は活動できる状態は逆にノンレム睡眠と呼ぶ。
 眠りにつくとまずノンレム睡眠が表れて、そこからレム睡眠に移る。以後、このサイクルを一時間半くらいおきに繰り返すことで睡眠は構成されている。
 夢はこのレム睡眠時に脳が記憶を整理するために行っているのではないか、という説が今のところ有力である。
 「あ、そーだ。航輔くん、今日の予定は?」
 「午後から陸の家行ってくる」
 「んー、じゃ帰ってきたら居ないかもね。晩御飯は好きにしてちょーだい」
 「分かった」
 この家は両親が共働きだ。父の雪鳴は大学病院の内科医として働いていて、奏もそこで医療事務として働いている。それ故に二人ともが不在であることも多い家だ。それに対して疑問を思っていたこともあったけれど、今はそんなことを言っていても仕方ないと思うようになった。
 「そーだ、最近世界くん、どーなの?」
 「どう、って?」
 奏が世界のことを話題にするとは思ってもみなかった航輔は、少し驚いた。けれど、面識がないわけではないのだ。
 「ほら、昔はよく家に来てたじゃん?」
 「……そういえば、そうだったな」
 懐かしさすら覚えるくらい、昔の話だった。いつからだろう、世界がこの家に来なくなったのは。より正確に言うと、自分から訪ねてくるようなことをしなくなったのは。最近だと航輔が来るように誘ったこともある。けれど自分から来るようなことはなくなっていた。
 「元気だよ、うん」
 この前死のうとしてた、とは口が裂けても言えなかった。そんなことを言ったら、いくら他人の事とはいえ心配するにきまっている。
 「また来てね、って言っといて」
 「そうだな」
 あえて肯定の返事はしなかった。言っても来てくれるかどうか、わからなかったから。それでも、あの21日の日よりは大分マシになっている。世界も航輔に、心を開きつつある。そう言ってもいいのではないか。そう思った。
 朝ごはんを食べたのち、自分の部屋に戻る。まだ世界は寝てるであろう時刻だ。もしかしたら昨日の疲れのせいで早く寝たかもしれない。とにかく電話を掛けるだけかけてみて、駄目ならまたかけ直すか、かかってくるのを待つか。
 どちらにせよ、航輔は躊躇はしなかった。それが彼の強いところであり、弱いところでもある。耳に聞こえるコール音が二回、三回と積み重なっていくたびにやはりまだ起きてないのだと納得しようとする。が、しかし。
 『……はい』
 電話がつながる音がして、その直後に不機嫌そうな声が聞こえてきた。やっぱりまだ寝ていたらしい。
 「よ、寝てたのか。悪いことしたな」
 『嫌ーな夢見てたとこだよ、むしろ有難い』
 世界もあまりいい夢が見れていないらしい。手早く用件を言うだけで済ませようかとも思ったが、ここで切るのはなんとなく、惜しい気がした。そう思う理由はわからないけれど、とにかく時間だけはある。暇つぶしでも、なんでもいい。口実さえあれば。
 「なんだ、昨日は早く寝たのか?」
 『まあなー、家帰って晩飯食ったらもう眠くなっててよ』
 航輔の思った通り、疲れて早寝していたらしい。
 『んで、なんか用かよ、こんな朝っぱらから』
 「ん、それなんだが。母さんがお前の話を急にしだしてな」
 『奏さんが?』
 怪訝そうな声だ。友達の母親に名前を出される事態というのも、そうそう心当たりがないものではある。何か勘ぐってしまうのも仕方がないと言える。
 「ああ、だから顔見せにこいよ」
 『あ、ああ、まあ……その内な』
 これは来るつもりはないだろうな、と航輔は直感した。来るつもりがないというよりはうまく来るきっかけを掴めないと言い換えるべきだろうか。不本意だが航輔が連れ出してやるべきなのかもしれない。世界が自分から来てくれるのが一番いいことだとは思うけれど。
 「ったく、いつからそんな引っ込み思案になったんだ、お前」
 『うるせーな、余計なお世話だ』
 昔の世界はこうじゃなかった、と思う。いや、あるいは無理をしていただけなのかもしれない。その反動で今はこんな状態になっている、ということも考えられる。とにもかくにも、今の発言はさすがに世界の気分を損ねてしまったらしい。それはそうだ、今のは嫌味に近い言葉だ。
 「悪いな」
 『お前じゃなきゃとっくに電話切ってるぞ』
 世界の言葉は、航輔にある種の優越感のようなものを与えた。世界にとっての特別。それが自分だと、嫌が応にも認識してしまった。そしてそれが、航輔の判断能力を鈍らせる結果につながることに、二人は全く気が付いていない。
 「……そうか。そう言えば」
 気になっていることがあった。それは今まで、聞いてはいけないことだと、無意識に思っていた。それは決めつけではあるものの、ある意味で正しい選択だった。それは、世界にとってもっとも聞かれたくないことだった、だろうから。それを航輔は口にする。
 「なんでお前、死のうとしてたんだ?」
 沈黙。航輔はしまったと思った。考える前に口に出た。その行為を責めることは出来ないだろう。けれど、この世界にはどれだけ知りたいと思っていたとしても聞かないほうがいいこともある。それがこのことだと言い切ることは出来ないが、今は少なくとも、そのタイミングじゃない。
 電話は突然切れた。失言だった、と航輔が悟るよりも早く。そして悟った時にはもう、電話が切れていることを示す音が、無情にもなり続けていた。もう繋がっていないのに、いまだに航輔は電話を耳に当てたまま。放心状態のまま。目の前が真っ暗になったような、そんな気分に陥っていた。それを引き起こしたのは、自分自身であるにも関わらず。
 

- continue -

2012-03-10

ついに来ました、避けては通れないこの展開。
なんというか、まあここまでショッキングな感じにする必要があるかって話ですが。
このあたりが一番の山場、かな?
おそらくそうだと思う。