夜の闇は冷たいこともあるけれど

 諦める、という感情は決して逃げではない。松木島世界の考えだった。確かにそれは言い訳でしかないのかもしれない。だが、それで救われることも確かに存在する。
 たとえば暗闇に閉ざされた洞窟を明かりなしで探索しようとするとき、どうするだろう?奥に行けば宝が待ち受けているかもしれないし、言葉にすることすら躊躇われるほどに凄惨な罠が仕掛けられているかもしれない。
 それならいっそ、その場で引き返してしまうのはどうだろう。宝を得ることもないが、引き換えに命を危険にさらすこともない。ノーリスクノーリターンだ。苦労して宝を得ることこそロマンだ、という言い分もあるかもしれないが、どのような苦労がそこにあるかもわからないのだ。だったら、命あっての物種というように自分の命を大切にしたほうがいい。
 けれどこれはたとえ話に過ぎない。ようするに極端な例だ。こういう例でこそ諦める、という選択肢は立派なものに思えてしまう。だが、それでは意味がない。

 月が綺麗な日には、犯罪が増加する、というたとえ話がある。人を狂わせるほど月は美しいのかと問われたのなら、そうであると言わざるをえないだろう。そこには何も因果関係は存在しないのに。今日は満月だから人を殺す、なんていうのは所詮こじつけに過ぎない。だがしかし、そういう考えで人を殺そうと思う人間が居たっておかしくないのが、この世界だ。
 けれど、昼より夜のほうが犯罪が増加する、こう言われれば納得ができる。なぜなら圧倒的に人目が少ないし、夜の闇がいろんなものを霞ませてくれる。そこに月の有無は関係ないのだ。
 なぜこんな話をしたのかといえば。満月を一人で眺めていると、妙に不安になったり気分が高揚したり。そんな作用がある気がしてくる。普段は世界の真後ろでその存在を大いに主張している尻尾も今や力なく床に横たわっていて、耳も若干垂れ気味だ。
 ありていに言うところの、元気のない状態である。なぜこうなったのかは今更考えるようなことではないのだが、その原因は彼の恋人にあることだけは、間違いない。
 御堂航輔、という彼の恋人。水色赤毛の竜人。名前の通り男だ。そんなのと恋人同士ということはつまり、そういうことである。これでも一応世界なりに悩んだ挙句に出した結論だったから、それに文句は言わない。むしろ恋人、という観点で見るなら航輔はむしろいいやつだとさえ言える。
 世界が構ってほしいと言えば飛んでくるし、話がしたいと言えば電話をかけてくる。これだけ言うと世界がわがままな性格に映るかもしれないが、もちろん世界本人が言わなくてもメールや電話はもちろん家にアポなしで来たりもする。
 ともすれば重いと敬遠されがちな行動の数々だが世界はそれでも受け入れた。自分のためにそこまでしてくれる航輔を嫌いになれるはずはなかったのだ。むしろ好きだと何度も言った。
 では何が問題なのか。簡単に言ってしまえば完璧すぎるのだ。世界の恋人、という以外の面においても。勉強もスポーツもできる。それはもとから才能が有り、それを本人が努力で磨いてきた結果なのだから否定はできないし、するつもりもない。
 けれどそれが、結果として世界に劣等感を生み出すことになる。仄暗い感情だということは自分でもわかりきっている。航輔が悪いわけがない。じゃあ悪いのは、なんだ?そう問いかけると、もう責めることができるのは自分自身しかない。  今までこんな風に自堕落に生きてきたのは誰だろう。自分だ。その結果航輔に劣等感を感じるなんて、自業自得もいいところだ。
 この考え方は、間違っている。それにすら世界は気づけない。そもそも航輔と世界、この二人を同じ見方から比較すること自体間違っている。当然、同じ見方で比べれば優劣がつくのは当たり前だ。足の速さ、という観点で比較すればおのずとどちらかが優でどちらかが劣、そんな烙印が押したくなくても、押される結果になってしまう。
 けれど心に迫る仄黒い何かは、それを覆い隠すように、世界の心を蝕んでいく。
 だから、自分が悪いのだ。航輔と付き合う資格なんてないくらい、悪くて黒い。それならいっそ、別れてしまったほうがいいんじゃないのだろうか。手遅れになる前に。そうだ。航輔には自分なんかじゃなくて、もっとふさわしい人がいるに違いないのだ。こんな、適当で気まぐれでずぼらな人間なんかより、はるかに。
 他人と比較して自分が下である、と認識することで心を守ることしか、世界にはできなくなっていた。ちゃんとそういう認識さえ持っていればまだ救われると、そう信じていた。それすら、“何か”の囁きでしかないのに。一人で後ろ暗い感情にとらわれると脱出は難しい。
 それこそ、底なし沼のように。考えをめぐらせればめぐらせるほど深みにはまっていくような、そんな感覚。そのまま深くに沈んで行ってそのまま帰ってこれないような。そんな感覚。仄黒い何かは、世界の心を食いつぶそうとしていた。

 世界は弱い。それは見下しているわけでもなければ糾弾しているわけでもない。ただそれが世界の一部だ、と航輔はそう認めているだけの話。弱さは決して悪いことじゃない。むしろ完全な強さを持った者なんてこの世にいはしないのだ。
 客観的にみると航輔は強い。それは驕りでも慢心でもない。昔の自分が弱かったからこそ、強くなろうとした結果であり、だからそれは普通なことである。だから、彼にも弱い部分は存在する。
 世界の弱さを受け入れてやることは恋人として普通であると航輔は考えている。だから時々悩んでいる世界を見ても叱咤したりはしない。むしろ、世界の気の済むまで愚痴や弱音を聞いたりすることこそが航輔にとって望むことだった。
 けれど世界は、そんなことを航輔に言ったりすることが、まだ苦手なのである。それは航輔も感じていた。恐らくそんな感情を見せて航輔に失望してほしくないんだろう。自分の弱さを自分で認めることができないから、弱くないぞと思い込ませたいのだろう。航輔のほうは、ちゃんと世界の弱いところと強いところ、その双方を理解しつつあって、それを受け入れる覚悟もしている。
 今日も明かりのない宵闇の中で、きっと世界は悩んでいる。自分の弱さを自分で認められないがために。だから航輔は、そんな世界を見守ってやろうと思う。自分でそれを受け入れるまで。弱い部分も自分なんだ、って思えるようになるまで。
 きっともう少し時間がかかると思う。けどそれさえできれば、もう悩むことなんて何もない。

 「よ、なにしてんだ明かりもつけないで」
 「い、いきなり来てんじゃねーよ!月見だ月見!」
 「へー、さっきはあーんな寂しそーな顔してた癖になー」
 「!ば、ばかお前いつから見てやがった!?」
 「さーていつからだろうなー。一か月前くらいからかな?」
 「……ふざけてんのか、お前」
 「まーまー落ち着けって。隣、いいか?」
 「……一緒に月見てくれるなら……」
 「お望みとあらば泊って行ってもいいぞ」
 「そこまで望んでねーし。調子乗んな」
 「んじゃまあしばらく付き合ってやるよ」
 「い、いや……やっぱ……」
 「わかったわかった。泊ってってやるよ」
 「……ごめん」
 「謝らなくていいから。俺最初からそのつもりだったし」
 「……え?」
 「嫌って言っても無理やり泊ってく予定だったのだ!」
 「おいふざけんなよ!じゃあ俺何も言わなくてよかったじゃねーか!」
 「いやいや、可愛い世界君が見れたんでよしとする」
 「……ッ!!」
 「わーお、照れてる?うん、そんな表情もいいね」
 「……」
 「ちょ、いきなり靴踏むのは反則だろ!」
 「お前が悪い」
 「い、いや、そうなる理由がわからん……」
 「今日のお前、なんかおかしくないか?」
 「たまにはいいだろ、こういうのも」
 「……まあな。お前にしちゃがんばってる」
 「お前がもっと笑ってくれたらそれでも構わないんだが」
 「それはお前次第だな」
 「俺に責任押し付けるつもりか?」
 「冗談だよ、俺そんな無表情か?」
 「普通ぐらいだな。お前怒りっぽいからわかりにくいが」
 「そっか。多分お前のおかげだな」
 「俺か?何もしてない気がするがな」
 「そう思うならそれでもいい。そしてそれがわかってるから」
 「分ってるから?」
 「俺はずっと、お前と一緒にいる」
 その発言に、航輔は驚いた。知らない間に、自分のことを少しは認めるようになったのか。もしそれが本当だとしたら、答えなんて考えるまでもないことだ。
 もし自分が、世界に巣食う宵闇を、少しでも払うことができたなら、それは喜ばしいことだ。だから、これからも世界のそばに居たい。それは今も、昔も、これから先もきっと変わらないだろう、想いだった。
 「ああ、当然だ」
 「お前、本当に自信満々だよな、いっつも。俺にもその自信分けてくれよ」
 「俺が自信あるのはお前に対してだけだ」
 「そんな気はしてたんだけどな」
 「言うようになったな、お前」
 「俺、お前のこと好きなんだぜ?それくらいわかってもいいだろ」
 いつの間にかそこに、陽だまりみたいに温かい空間が出来上がっていた。夜の闇に負けないくらい、優しい光が灯っているかのようだった。
 

- the end -

2012-05-17

闇=悪ではないと、僕はそう思っています。