episode03-3 陽炎の海

 時間は少しさかのぼり、3月24日の夜。世界はぼんやりとリビングにいた。あの朝方の出来事のショックはそろそろ抜け始め、けれど何か行動を起こそうとは思わない。無気力状態、という言葉が一番しっくりと来るような状態だった。
 どうしたらいいのかなんて考えるまでもないけれど、それをするとやっぱり本当のことを言わなければならない。それを思うと少し憂鬱になる。それならいっそ、避け続けるのも、いいかもしれない。けれどそれはきっと、難しいだろうし、何よりああいった関係を自分は欲しがっている節が確かにあった。
 誰かと一緒にいることは苦労することでもあるだろうけど、余計なことを考えなくてもよくなる。一人でいる機会が多い世界にとっては、特に。楽しさは掛け算、辛さは割り算。それが感覚的にわかるような気がしていた。
 一人でいることは確かに気が楽だ。気を遣う必要がないし、それに気ままに過ごすことができるというところは利点だ。だけど、一人では決して得ることのできないものもある。久しぶりにそれに気づかされたのが、ここ最近の出来事だ。
 確かにそれは、昔から知っていたことだけど。自分の人格が形成されていくうちにそれから目を背けるようになっていったことは認めなければならない。今から考えてもひどい性格をしているものだ、と思う。けれど今更それを変えようがないし、無理して変わりたいと思わない。
 けど。やっぱり誰かと一緒に遊んだり、どうしようもない雑談で時間を潰したり、そういったことも大事だったのだ。そして無意識のうちにそれを希求している自分がいることも。
 一人でいる時間も必要で、誰かと共有する時間も必要。それが最終的な結論だ。
 そして。だからこそとも言うべきだろうか。来るはずのない航輔からのメールを期待している自分がいるのは。来るはずのない。それは当たり前だ。謝罪メールをくれたのにあんな返しをされればしばらくそっとしておく以外に選択肢があるはずもなく。自分から何かアクションを起こさなければ、自分の求めるものはきっと得ることは出来ない。
 それでも世界のを立ち止まらせるのは、あの21日の出来事のせいに他ならない。あの件は半分本気で半分冗談まがいだっただけに、航輔には一番事情を説明しにくいのだ。何せ自分を止めたのは航輔で、航輔が居なかったらどうなっていたかなどと考えると恐ろしくなる。あんなことをしようとしていたくせに、ずいぶんと殊勝な考えだと思うけれど。
 次にメールが来たらどうしよう、と考えることに意味はない。メールなんて来ないし、来ると考えること自体、わがままでしかない。わがままでしかないけれど、それが一番世界にとって理想的な展開だった。
 ともあれ、今日はもうすでに遅い。まだ腹をくくるほどの覚悟も何もできてない以上は、明日に先延ばしにしたところで誰が責められるだろう。世界はまだ、先延ばしにするたびにもっと大きな勇気がいるということを、知らないし気がついてもいない。それは航輔も同じようなものだったけれど。

 遠くがよく見えない。もやもやとしたゆらめきが、周囲を覆っている。陽炎、というにはいささか違和感を覚えるが、そうとしか表現しようがない。けれど、太陽もなければ主だった光源も存在しない。それを陽炎と呼んでいいのかについてはもう考えるのをやめた。全く持ってその行為に意味はないからだ。
 見渡す限りの黒い海。セピア色の空。そこに裸足で立っている自分は、何をしているのか。この陽炎の海で、何をしたいのか。確かに、目的はあったはずなのに。それはどこかになくしてしまったかのような喪失感が心の中に広がっていた。
 遠くに光る何かが見えた。それがなんなのかはわからない。けれど、今はとにかく目的が欲しかった。この海に存在している自分の、理由。それがその光であると、今は思いたかった。黒い海はどこまでも浅く、足首より上に来ることはない。それがどこまで続いているのかなんて保証はないけれど、とにかく進んでいく。
 光っているもの。それは真珠だった。その黒い海の中でひたすらに存在を主張している。これが自分の存在証明ならどんなに美しいことだろう。けれど、それは違うとどこかできちんと認識していた。こんなにきれいな代物じゃないって、わかっていた。
 それでもなんとなく、それを手に取った瞬間だった。何かが自分の手を貫いた。それは陽炎の海のように黒い色をして、鋭くて、そして。明確な敵意を感じ取れた。それはいったい何なのか、わかりはしない。ただ最終的に、手だけでなく体中を貫かれていたということだけは理解した。
 ああ、死ぬってこういうことなんだろうか。怖い。得体のしれないものに意識を塗りつぶされていく恐怖。痛み。全身に電気が流れたような激痛。一体どうしてしまったのか、それでも視界が黒に塗りつぶされるまでは、考え続けていた。

 気が付けば、どこからか差し込む光が自分を照らしていた。世界は起きだす。またあの夢か。いつもいつもあの黒い海が夢の中にあらわれる。ここのところそればかりだ。あまり気分はよくない。それはそうだ、最終的にいつも、死んでしまうのだから。
 時間を見ると、もう昼過ぎだった。昨日は一体いつ寝たのだろう。わからないが、ゲームをしていてそのまま寝てしまったわけじゃない、ということは重要な部分だ。寝ようと思っても寝付けなくて、ずっと布団の中でのたうちまわっていた。そうしているうちにいつの間にか眠ってしまい、今に至る。悪夢を見るくらいならもう、いっそのこと眠らなくてもよかったくらいなのに。
 ともあれ、見てしまった悪夢も起きてしまったことももう、気には留めないことにする。まだ春休みも一週間以上ある。その間に、決着をつけよう。できれば今日にでも。
 けれどそのために考えたいことはまだある。そのために世界は一度、外に出ることにした。具体的に言うなら、散歩だ。インドア派な世界にとって、そうすること自体珍しいことだった。これも航輔と交流するようになってから変わったことなのだろうか、と感じるけれど、今はそんなことはいい。
 簡単に身支度を済ませてから、家を出る。なんとなく、という理由で家を空けるのは本当に久しぶりなことである。今日はところどころに雲は見えるけれど、おおむね晴れ。気分の良くなるような風景が広がっている。こんな景色のいいところに住んでいたのかと改めて、自覚した。
 まず気づかされたのはあまり人通りが多くないことだ。よくよく考えてみればそうなる。ここに住んでいる人の多くは鎌橋に働きに出ているのだ。平日のこんな時間にうろつくのもどうかと思う。けれどそれは、世界にもいえることだったりするのだが。
 遊びに行くのも普通は鎌橋だ。海城村で遊べないこともないけれど、大自然を舞台にしたアドベンチャーなんてものは小学生時代に見切りをつけていた。そして家に集まってゲーム、なんてこともしなくなっていた。そして外で集まるならやはり鎌橋、と最終的にはそうなっていく。
 春特有の陽気にあてられて、歩いていてとても気分がいい。昨日までの気分の悪さは一体なんだったのだろう、と思うほどに。航輔になら全部を話してもいいような気分になってくる。ちょっと呆れて、ちょっと怒って、それで終わる、そんなような気がしていた。
 と、その時だった。甲高いクラクションが鳴り響く。驚いてその方向に顔を向けると、バスが迫ってきていた。うみしろゆうらんバス、と銘打った、時刻表通りに来ないバス。本来ならもう昼に来る時間帯はとっくに過ぎているはずだ。なのに。
 このままじゃ轢かれる。そう思った。けれど体はうまく動かなかった。どうにかバスもよけようとしているし、世界も少し横にそれるだけで回避はできる。なのに、体は硬直していた。もうだめかと思っていた矢先だった。
 それは黒い雷光のように見えた。あくまで世界にはそれがなんなのか、視認は出来なかったという話だが、それは世界の腹に猛然と突っ込んできた。おかげで回避することに成功したものの、そのまま田んぼにそろって落ちて行った。
 「ってえ……」
 バスは不快そうにまたクラクションを鳴らしたのちに、去っていく。今までの光景が嘘のような気もし始めていたが、目に映っている青い空は、自分が生きている証であって。
 「にゃあ」
 耳に届いたその鳴き声もまた、そうなのだった。田んぼに寝転がっている状態の世界に乗っているような格好で、その猫は座っていた。真っ黒で、見ていると不吉な予感がするその黒猫は、確かに轢かれる寸前だった世界を助けてくれたのだった。
 「お前……助けてくれたのか?」
 猫に言葉が通じるはずもない。それはわかっているけれど、聞かずにはいられなかった。さっきの世界が見たものはこの黒猫で。すなわちこの猫は世界を助けてくれた猫、ということになる。
 「にゃう」
 それが何を意味しているのか。明確にはわからなかったけれど、世界には頷いているように見えた。もしかしたら、世界の言っている言葉の意味も理解しているのかもしれない。
 「……ありがとな」
 あのままどうなっていたか、考えることは難しいが。無事ではすまなかっただろうことだけは想像に難くない。なにせ結構なスピードが出ていたからだ。
 だから、世界は黒猫に感謝しなければならない。一歩間違えれば黒猫だってもろともに死んでいたかもしれないのだから。
 

- continue -

2012-03-14

ということで、黒い海にいたのは世界でした。
みみっちい伏線である。
ていうかまあ読んでれば大体わかりますよねーですよねーですよー