episode04-1 夏空の彼方・前編

 嫉妬、という感情はけして悪いものではない。うまく昇華することができる人なら、素晴らしい芸術作品にしたりもできるし、努力のベクトルを合わせることで勉強に励むこともできる。要するに物事はとらえ方次第だ、と気づかされるような、そんな話だ。
 いったい何に嫉妬を感じるのか。それは人によってさまざまだけれど、結局のところ自分にはないものを羨んだりするようなことが嫉妬というのだろう。それは羨望というかもしれないが、より後ろ暗い感情が嫉妬という単語には含まれているように思える。
 だとしたら、今日感じたあの感情はなんなのだろう。航輔は思う。あのここあと名づけられた猫が羨ましかったのだろうか。そうだ。世界と楽しそうにじゃれあっているあの猫が、ちょっとうらやましくなっていたのだ。けれど、なぜだろう。どうして羨ましいと思ったのだろう。
 その日、松木島家からの帰り道。あのあとも結局取り留めのない雑談を交わして。家に帰る途中だった。一人になると一緒にいた時以上に自分の気持ちには敏感になる。というより、思い起こしてしまう。とはいえ一人でいる以上何か考えてしまうのは当たり前といえば、当たり前。
 けれど、若干不思議な気持ちもしていた。気まずくなっていたころはあんなに焦っていたのに、今はなんだろう。安心してしまっているのだろうか。
 ともあれ夕方になり、世界は鎌橋に行くと言ったので、そのままお開きになった。航輔は自分もついていくと言ったのだが、『自分で世話するから』と聞かなかったのでそのまま帰ることにしたのである。それに関して航輔が異論をはさむことは出来ないわけだが。
 家に着くと、台所のほうからなにやら音がする。母親がいるのだろうか。父親がいる可能性よりよっぽど高いけれど、最後に会ったのはいつだっただろう。
 「およ、航輔くんおかえりなさい」
 「ただいま」
 「あれあれ、なんかいいことあったの?」
 「!」
 あったと言えば、あった。ありていに言うなら世界と仲直りした、のだが、それを奏に言うのは気が引けた。それを言うなら諸々の事情も説明せねばならないが、ついさっきもう終わったことにしたと言った身としては蒸し返すのは避けたい。
 「まあ、そだな」
 「ふーん、よかったね。あ、晩御飯もうすぐできるから」
 予想に反して奏は何も言わなかった。ちょっと予想を外したけれど、それならそれでいい。台所を通り、自室へと戻る。すると、その時。
 「航輔くんも変わったよねー」
 という、独り言を航輔は聞き逃さなかった。というより、聞こえてきてしまった。その瞬間に、思う。昔の自分は、どんな人間だったのか、と。

 何年前の出来事だろう。それはとある夏の日だった。蝉の音がそこらじゅうで響き渡り不協和音のようになっていたけれど、子供たちはさして気にしない。ましてや今は、集中しているのだ。蝉ごときに構っている場合ではないのだ。
 そこは海城村にある森林部。あまり整備されているわけでもないので、立ち入ることはしないようにと言われていたが、きちんと守るような子供は例外を除いて、いなかった。
 「……」
 背後から、そっと忍び寄る。狙うは大きなカブトムシ。どんな種のカブトムシかはわからなかったけれど、そんなことは些細な問題だった。虫取り網でそっと、そっと近づく。その行為に意味があるのかというところだが、本人たちは妄信的に、ゆっくりと近づけることで気づかれない、と信じていた。
 ゆっくり、着実に。木の葉を踏むときに発生する乾いた音でさえ、危険極まりないものとして受け止める。それほどまでに慎重になりながら、興奮していた。もうすぐ。もうすぐだ。網を素早く動かせば捕まえられるくらいまで、あと少し。捕まえられる側であるカブトムシはのん気に蜜を吸っている。
 無限にも思える時間。しかししっかりと目の前のカブトムシを見据えて。照りつける太陽も、今は木々が遮ってくれていてほとんど気にならない。そして。
 子供たちの間で歓声が起きたのと、虫取り網が木の表面に叩きつけられたのはほぼ同じタイミングだった。
 「つかまえたー!」
 捕獲した当の本人、松木島世界は虫取り網の網部分を高々に掲げて、得意げに叫んでいた。そして、それを近くの家から眺めていた御堂航輔は、ため息をついた。
 なぜ彼が自分の家、しかも二階部分の自分の部屋でその一連の流れを見ていたのかといえば、単純に自分も入れて、と言えなかったことに起因する。別段無視されているわけでもなんでもない。ただ、自分から言い出せない。航輔が皆の輪に加われない理由なのだった。
 勇気さえあれば、といっつも思う。けど言い出せない。内気な子供なのだった。外では事態が進行していく。
 「えー、放しちゃうのー?」
 「だって俺、飼っても死なせちゃうし」
 「じゃー僕にくれよー!」
 「自分でつかまえろよ」
 ほらほら、と次のターゲットを見つけたらしく、今度は世界ではない、ほかの子供がチャレンジするようだった。そこで、世界は思い出したように言う。
 「あれ?航輔は?」
 突如自分の名前が登場したことで、航輔は驚いて見物していた窓から身を隠す。一体、なんで自分の話題なんて登場したのだろうか。
 「あ、そーいえばいないね」
 「いー度胸だな、連れてくる」
 「おー!なるべくはやくなー!」
 そして事態は妙な方向に転がりだす。え?え?とよく呑み込めていないうちに、下で玄関の開く音がした。家から見えるということは家に近い場所で遊んでいるという証でもあり。
 「おっじゃまっしまーす!」
 玄関チャイムもお構いなしだった。母親である奏が在宅中は玄関のカギは閉めていないのだ。簡単に入れるだろう。それにしたって無警戒すぎじゃないか、という突っ込みも、次に聞こえてきた母親の声でかき消された。
 「あー、いらっしゃい。航輔くんなら二階にいるよー」
 余計なことをしてくれた。航輔としては遊びに行きたくないわけではない。ただなんだか自分の知らないところで自分をまきこんだ何かが始まっていると思うのは、少し緊張するというか、なんというのか。
 そこまで考えた矢先だった。自分の部屋のドアが勢いよく開いた。
 「よ!それにしてもすずしーなここは」
 木の陰で涼しいとはいえ、今は夏。それなりに暑い。タンクトップ一枚の世界ですら汗をかいていた。と、そんなことは置いておくとして。
 「……え、あ……なんで……」
 「なんでも何もねーよ、とっとと来い」
 有無を言わさずと言った態度の世界に、もう航輔は逆らうことは出来なかった。腕を引っ張られ、そのまま外に連れ出される。奏と目が合ったけれどウインクで返されてしまい、なすすべがなくなってしまったのだった。
 家の外はむわっと不快なくらい暑い。そして逆に気分がいいくらい青空だ。そんな中世界に引っ張られて、虫取りが行われている場所にたどり着く。
 「おっせー、何してたんだよ世界」
 「これで遅いとかじゃーお前が行けばよかったじゃねーか」
 連れてこられた航輔そっちのけで世界が輪に混ざってしまい、いたたまれない気分でいると。
 「とりあえず次は航輔の番だろ、ほれ」
 いきなり虫取り網を渡された。え、と航輔が絶句していると。
 「お、あそこのクワガタとかいいんじゃね?」
 「失敗すんなよー」
 激励なのか野次なのか、よくわからないままに航輔はクワガタのいる木に向かわされる。もはややるしかない、と航輔は諦めた。さっきの世界みたいにゆっくりとにじり寄って。一気に網をかぶせる。
 「おお、やった!」
 「すげーじゃん航輔!」
 クワガタではなく航輔にみんなが寄ってくる。航輔は別に何か大したことをしたわけじゃなかったのに。でも、なんだろう。悪くはない。素直にそう思えた。
 その日から、何かが変わったというわけではない。世界によく連れ出されて、みんなと、時には二人で遊ぶようになっていた。おそらく、航輔が小学生時代でもっとも楽しい思い出だと思える。そんな瞬間だった。
 そんな日々が続いたころ。その日はとうとう、常に連れ出してくれる側の世界を驚かせてやろう、と航輔は考えた。午前十時。早く起きて朝ごはんも食べて。準備は万全。その日は前々から川で遊ぶことに決めていたので、水着も持って。
 「世界くん!」
 「お、おろ?はえーなおい」
 世界の家に、走って行った。その様子に奏もいい傾向だ、と思っているようで何も言わずに見送っていたのだが、今の航輔はそれに気づかない。案の定世界はまだパジャマで歯磨き中、といった格好だった。
 「待ってろ、40秒で支度する!」
 にやりと笑って家の中に一度戻っていった世界を、航輔は玄関先で待つ。成功した。成功と失敗、というカテゴリでくくる話なのかはわからないが、とにかく航輔は、うれしかった。いつも連れ出す側の世界を、自分で連れ出すことに。勇気を出すことは、案外簡単なことだって、気づいたことに。
 そして、40秒とそれに20秒くらいたったのちに世界は出てきた。もう二人とも、遊びに行きたくて仕方ないのだ、どちらから言い出すまでもなく、同時に駆け出した。家から集合場所の川までは、案外遠い。けれど、今の二人にそんな心配は無用だ。どこまでも走っていけるような、そんな気分だったから。
 

- continue -

2012-03-18

今ではすっかりインドア派な世界くんですけれど、今よりは活発だったようで。
ついでに身長も年齢平均と比べてまだ高いほうで(ry
もうちょっとだけ続きます。